時間のある時に眺めてください。結構話が長いです・・・。
子供の頃から図体は大きくて「健康優良児」でした
1964年2月、燕市吉田で体重3600gで生を受けました。
早生まれにもかかわらず、同級生と比較して常に体が大きな男の子でした。
とにかくよく食べて(小学校上がる前にお茶碗7杯、「この子ひとりで2合は食べる」と言われてました)、よく寝て、よく遊び、すくすくと育ちました。
小学校卒業時には身長170㎝に成長していました。
学生時代、実業団と「バレーボール」に成長させてもらいました。
吉田中学(燕市)入学時、本当はバスケットボール部に入りたいと考えていましたが、「バレー部に入ったら全国大会に行けるぞ!!」という同じ小学校の先輩に誘われて、バレー部の練習を見学に行ったことがバレーボールをはじめるきっかけになりました。
バレーボールに接するのはその時が初めてで、「へえ~、バレーボールって結構面白いなあ~」と安易に思い、そのまま入部を決めました。
「借入部の時はやさしくて本入部が決まると途端に厳しい」なんていう話はよくある話で、本入部が決まると練習時間も長くなり、また「部のきまり」について先輩たちから厳しい指導を受けましたが、日に日に成長する自分自身が実感できて、嬉々として練習に参加したことを覚えています。
吉田中学校バレー部は当時県下の強豪校で、「県下制覇、全国大会出場」は当たり前のように目標として課せられていました。
自分たちが中心となる2年生の夏にキャプテンに任命されました。1年に身長が15cmも伸びて膝の成長痛に常に悩まされていたり、全校集会で立っているとよく貧血で倒れたりと、かなりひ弱なキャプテンでしたが、厳しい練習を共に経験してきた友人たちに支えられて吉田中学で2年ぶり6回目の県大会優勝と、なんとか部の伝統に対して自分たちの責任を果たすことができました。
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高校は、名将柬理猛(かんりたけし)先生のおられる巻高校に入学しました。
先生がいてもいなくても変わらずキャプテンが中心となり、マネージャーの指示のもと、てきぱきと練習をこなす先輩たちの姿に「さすが高校の部活は違う!!」と驚嘆しました。
また、顧問の先生のことを選手同士の時もあだ名や呼び捨てにせず常に「柬理先生」と呼ぶ先輩方の姿に「心底先生を尊敬している」印象を持ちました。
プレイに関してももちろんいろいろ指導を受けましたが、柬理先生はあいさつや礼儀、精神的な面での指導を重視されていました。
また、非常に生徒思いの先生でもあり、厳しい面はありましたが生徒から慕われていました。
驚いたことに先生をしたって他校の先輩まで練習を付けに来てくださっていました。
そのような環境下の中、全国大会目指して練習を続け、主将として昭和56年インターハイ初出場の切符を手に入れました。
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高校3年生のインターハイ前に、たまたま大阪の松下電器産業(現Panasonicパンサーズ)から、お誘いがありました。
当時はアルビレックスもなく、実業団は遠い都会の世界の話で、片田舎の燕市吉田のざいごに住む私にとっては全く思いもかけない話でとても驚きました。
冷静に考えて「実業団でプレーできる器ではない」と、一旦お断りしましたが「こんなチャンスはめったにない。世間を見て勉強してこい」という恩師の勧めもあり、高校卒業と同時に故郷の新潟を後にしました。
日本リーグ(現Vリーグ)のレベルの高さと、こてこての大阪のノリに圧倒されながら必死になって練習に励みました。
田舎ではちやほやされていてもVリーグのチームの中では体力的にも技術的にも問題にならないレベル…はやく上手になりたいという焦りもあって、肩や膝を痛めることがよくありました。
早くVリーグの高さに追いつかなければいけないのに、ケガで思うような練習ができない…
そんな時に助けていただいたのが「カイロプラクティック」を看板に掲げる先生で、本当によく話を聞いてくれる先生でした。
話を聞きながら疲れているところ、弱っているところを的確にとらえてアプローチして下さいました。
私たち選手からすれば怪我を治してくれる先生は神様のような存在で、「こんな先生の様になれたらいいなぁ」とあこがれていた事が、「治療業界」に興味を感じたきっかけになりました。
怪我の手当で先生に大変お世話になりましたが、しかし結局、へたくそだったのと肩と膝のケガの影響もあり、試合に出られたのは5年間で3試合だけでした。
(へたくそだったおかげで、他の選手のコンディショニング作りの為にストレッチをしたりなどトレーナーのお手伝いをすることも多く、「こういう仕事は自分に向いている」という実感はありました)
丁度松下が日本リーグから二部リーグに落ちたときにその後京都国体を目指していた松下電子工業に移籍、京都国体後にその松下電子工業バレー部を引退しました。
治療家への夢はその頃から抱えていましたが、すでに結婚していて子供もいたことから松下電器産業グループに残り、いったん普通のサラリーマンとしての人生を歩み始めました。
バレーボーラーからサラリーマンへ
いわゆる高校時代まで、ヘタクソにもかかわらず私は「井の中の蛙」「お山の大将」でした。
たいして勉強することもなかったのに落ちこぼれもせず、大してうまくもなかったのに図体が馬鹿でかいこともあって試合に使ってもらうことが多く、また実業団からお声がかかったことである種、学校では目立つ存在でもありました。
幸運であることをあまり考える事もなく「ま、人生ってこんなもんなんだろう」と高をくくっていたようなところがありました。
そんな中、レベルの違う実業団でバレーボールをしている中で、自分自身のプライドはズタズタに引き裂かれ、けちょんけちょんにやっつけられ、結果を出してなんぼの世界の中で、もがき苦しみました。
バレーを終えてサラリーマンになったときには、私は地方の高卒の、社会人になって5年もたつのに会社のことはろくにわからない、調子っぱずれのただの世間知らずでした。
しかし、実業団のバレーボール時代に、学生時代のお山の大将的なプライドの代わりに、強烈なコンプレックス…「男は仕事ができてなんぼ」「仕事ができなければひとに認めてもらえないんだ!!」という、仕事をする上での自分自身の覚悟、「核」となる部分が出来上がっていました。
バレーをやめてサラリーマン(照明製品を生産している事業場の営業、生産管理のような仕事)となって、それからは、猛烈に働きました。
優秀社員ではなかったけれど、猛烈社員ではあったと思います。
けっこう納期管理や生産調整など、地味だけれど面倒くさい仕事を嫌がらず、朝遅くから晩遅くまで、土日もいとわず働きました。
松下電器は、いま思うと本当に懐の深い会社でした。
高卒のバレーばかの私に時間をかけて仕事をやるチャンスを与えてくれて、途中はねっかえったり、上司と衝突したりいろいろなことがありましたが、30代のころには照明事業として海外への生産拠点としてインドネシアに工場を建設するプロジェクトが立ち上がったときに、立地国であるインドネシアの初の営業駐在員として働かせていただくことになりました。
海外の営業駐在は、高卒としては異例でした。(インドネシア語は事業場の営業で話せる人はいませんでしたし、「病気をしない頑丈な奴を出せ」という事だったんだと思います)
丁度32年続いたスハルト政権が崩壊し、私の駐在した4年半のうちで大統領が4人かわる政情不安の中で、沢山の方々の支援を頂きながら、「会社のコマ」としての働き方から、マーケットを調べて企画立案して会社を動かす、本当に小さい小さい、しかし一つの「モーター」としての働き方を身につけさせてもらったと感謝しています。
自営業を行うにあたっての進め方や覚悟のようなものも、現地のディーラーの社長たちから教わりました。
インドネシアの4年半、自分にとってのエポックとなる時期であったと思います。
その後、英語のしゃべれない海外営業マンとして日本に帰ってくるわけですが「そりゃまずいだろ」ということで、半年間猛勉強して、TOEICの点数を230点あげて当時の海外営業駐在基準の730点を超える745点まで点数を引き上げました。
「さあ、これからは英語圏で頑張ろう」と思っていましたが、あにはからんや韓国の産業照明の営業担当となり、TOEICで頑張った成果は活かされることなく、韓国の優秀な営業と二人三脚で仕事をこなすことになりました。
当時の液晶TVには、バックライトとしてLEDではなくて非常に細い「冷陰極蛍光灯」という蛍光灯が使われていて、その冷陰極蛍光灯を韓国のサムスン電子やLGへの販促を行うような仕事をしていました。
私の記憶が確かならば、当時日本での直管蛍光灯の需要が約5000万本といわれていた時期に、私一人の担当の売り上げ(韓国への部品としての蛍光灯の販売数)が1500万本を超えていました。
売上が馬鹿でかく、楽をしていても成績優秀・・・、今考えると夢のような人生のいっときでしたが、韓国の営業があまりに優秀すぎて出る幕がない・・・社内では仕事をやっているふりをしているだけで成績は上がるけれども、昔やっていた生産管理のような仕事をする中で、ちと面白みに欠けてきたなと感じていました。
松下電器はいい会社で1年に1度自分の進みたい道や夢を聞いてくれるんですが、その時にはいつも「アジア、アフリカなどの厳しい環境下での開発営業」と書いていました。
しかし当時、ランプ照明事業で積極的な海外営業展開を控える動き(特に家電ルート)もあり、「アジアアフリカなどの手つかずの市場で這いずり回って営業網を構築したい」という、鉄砲玉的性格の私にとっておそらくサラリーマンとしてもっとも自分自身を活かせる道(海外の開発営業)が見えない状況の中で、サラリーマンとしての手詰まり感を感じていました。
仕事は優秀な韓国人の営業に任せていれば何とかなるし、会社が終わった後に以前から興味のあった「人のからだを治す世界」の勉強をしてみよう!と思ったのがこの業界に係る直接的な入り口でした。
サラリーマンからカイロプラクターへ
いろいろな学校(カイロプラクティックだけでなくリフレクソロジー、柔道整復師やはりきゅうなども)を視察する中で、もっとも信頼のおけそうな学校という事で2年制のカイロプラクティックの学校「日本カイロドクター専門学院」の夜間部に入学しました。
はじめての解剖学がやたらと面白くて、仕事以外の時間は夢中になって勉強しました。
カイロの学校でもすでにトウが立っている感は否めませんでしたが、若い仲間たちとわいわい言いながら実習を行うのも非常に新鮮でした。
「あっ」という間の半年間でしたが、その入学して半年後の10月初めに社内で「早期退職者支援制度」というプロジェクトの募集がありました。
早期退職者を支援する、本当にありがたい制度…リストラの一環として退職金を上積みして辞めたい人に手を挙げさせる制度であるわけですが、「どうしたもんかなあ」と思いあぐねるも、年老いた両親の住む実家新潟に帰るとすればサラリーマンとして都落ちするよりは、小さい店とはいえ一国一城の主、個人事業主として帰りたいという思いがあり、「まさにチャンス」ではありました。
3年先までの事業計画書を作ってスケジュール的にも資金的にも独立できそうな算段が付いたので、思い切って「早期退職支援制度」を利用させてもらう事にしました。
基本的に早期退職支援制度を利用して退職した人の所属する部には、人材の補填をしないというのが原則でしたので、お偉いさんでもなく中途半端な中堅社員(課長代理)の私が「やめさせてもらいます」といったときには職場の皆さんに大いに驚かれました(自分たちの仕事が増えるから)が、しかしやはり松下電器は懐の深い会社なので最後は気持ちよく見送って頂きました。
安定した大企業をやめて、不安定な個人事業主にならなくても・・・と考える方もいるかもしれませんが、46枚の事業計画書を見ていると「成功しないわけがない!!」と思っていました。ま、世の中そんなに甘くはないことを後で知ることになるんですけど・・・。
会社と学校の2足のワラジをやめて、カイロプラクティックへの道に進もうと決めたものの、やはりいろいろなことを勉強しておいた方がよかろうと考えて、カイロプラクティック以外に、アロマテラピー最大手の日本アロマテラピー環境協会(AEAJ)でインストラクターの資格を、当時最大手のマキフジタリフレクソロジースクールでリフレクソロジーを勉強しました。
かみさんにも無理を言って、AEAJ認定のアロマテラピーのインストラクターの資格と、アロマセラピストの資格、さらに心理学系のキャリアコンサルタントという資格も取ってもらいました。
私はさらにカイロプラクターの直営校で働いたり、RAJAで半年のリフレクソロジー勤務経験を経て、その他にもテーピングやカウンセリングの勉強をしながら、思いがけず大阪の東天満の整骨院で技術チーフを務める機会があり、「整骨院の世界」のなんたるかを勉強させてもらうことができました。
本当にその頃は目が血走っていたと思います。
短時間のうちに働いてのぞかせてもらった店が10店・・・この世界で生きていくために必要ないろんなことを、集中的に勉強させていただきました。
そして新潟白山へ
会社を辞めて3年目の冬の11月26日、家内とふたり新潟に戻ってきました。
あられやみぞれ吹きすさぶ新潟市内を家内とふたり、タウンページで調べた同業店や空き店舗の様子を確認し、夜にはマッピングしながら、どの地域に店を出したらよいかを勘案しました。
白山という土地は昼間はひなびた感じがありますが、朝晩は非常に乗降客が多く活気があります。
また以前働いていた東天満(北野天満宮が近くにあります)と同様に神社(白山神社)が近くにあり、氏子のつながりも強いだろう、市役所その他公的施設もたくさんあり公務員も多い、病院も多い(看護師さんがたくさんいる)という事がだんだんとわかるうちに、もうここしかないという気持ちになりました。
そして2008年2月11日「整体工房白山駅前店」を開業しました。
皆様に店の名前を憶えて頂くために、雪混じりの寒空の中、夫婦そろって白山駅前のビラ配りから始めました。
(開業時のふたりの写真。今だから言えますがこの撮影1時間前に大げんかしてました。よくみるとかみさんの目は笑っていません)
開業4カ月間は1日の休みを取らず、必死に働きました。
「レース前のコンディショニングだからと朝の6時に予約したい」という要望や、「仕事帰りが9時になるが大丈夫か?」という質問に対して答えは一つ。「大丈夫ですよ」とダボハゼの様に、お越し頂けそうな患者様がいればどんな対応もとるように心がけていました。
全く予想もしていませんでしたが、はじめにケーブルTVの放送技術兼プロデューサーの方からお話が合ってケーブルTVに出演させて頂き、そのご縁でKOMACHIさんの「私のゴッドハンド」という特集にも掲載頂きました。
大きな反響があり大変ありがたかったんですが、実力もないのに話題の渦中になった「ツケ」は後からまわってきました。
その辺の細かいところは別のページに掲載されていますのでそちらをご覧ください。
そうこうしているうちに、患者さんも増え、地域の皆様に受け入れられている手ごたえを感じられるようになりました。
開業5年、お陰様でたくさんの患者様に支えられて白山の地に根を張った地域密着整体院に成長したと実感できた頃に、周りを見回すと、「60分2,980円」の安値攻勢のチェーン店や、整体院のように見せかけて(整骨院では「骨盤矯正無料!!」などの勧誘する表現の広告は禁じられています)積極的に宣伝広告を始めた整骨院が出始めていました。
技術の面でも不安がありました。いろいろな研修には積極的に参加はしていましたが、「国家資格所有者のみ参加可能」のセミナーもたくさんあり、「自分が今勉強している事以外の知識」に対する興味が強くありました。
たまたま今までうまくいっているけれど、いま、ここで安穏として歩みを止めれば、大きな時代のうねりに飲み込まれるかもしれないという漠然とした不安がありました。
また、白山という土地柄高校生がたくさん通ってくれていましたが、「部活をしている学生たちが通い続けるにはどうしても高い店」でもありました。
保険適用可能な「整骨院」として学生たちに使いやすい店にしたいという思いにも後押しされて、3年制の専門学校である新潟柔整専門学校(旧セルテック新潟柔整専門学院)に入学し、再度若者たちに交じって勉強することを決心しました。
名前が柔道整復師というだけあって、柔道の授業があり、さらに3年生になると柔道実技認定試験なるものがあり、それに合格しないと卒業させてもらえません。
「治療家の勉強するのに、なんで五十歳間近で柔道せんといかんの?」と、かなりわだかまりを持っていましたが、しかしやらないと卒業させてもらえないので、ケガをしないことを一番に考えて、柔道に取り組みました。
また専門学校では夜間コースと昼間コースがあり、夜間コースの方が社会人も多く落ち着いた雰囲気でしたが、夜間コースに行けば仕事帰りに新潟整体工房に寄ってくださる方に迷惑をかけると考えて、昼間コースに入学しました。
クラスメート30名のうち3,4名を除いて高校卒業してすぐの若者たちです。自分の娘たちよりはるかに若い・・さらに私がクラスで最長老でした。
「足手まといにならないかな⁉」と、かなり心配してましたがいい子たちばっかりで、私のようなおっさんも適度に仲間に入れてもらえました。
若い頃に比べると記憶力が落ちて、思うようなペースで勉強がはかどりません。
しかし、年齢を言い訳にしていても進級して国家試験に合格しないと意味がありません。
若い子たちから見れば、その必死さ加減はもはや滑稽に見えたのではないでしょうか。
それこそ底の抜けた桶で必死で水を貯めて、なんとか3年のスパンで湯船に水を貯めることができてほっとしました。
2016年春、無事国家試験にも合格し、晴れて医療系国家資格、柔道整復師の免許を頂戴しました。
いよいよ整骨院開業
以前に大阪で整骨院で働いていたことがあり、整骨院の実情について大体把握はしているつもりでしたが、経営者としてすぐに開業するには自信がなく、まずは燕市吉田の実家で「渋木整骨院」を立ち上げて昨今の整骨院を取り巻く環境など、勉強をしようと考えました。
2016年8月に渋木整骨院を保険所に登録し、おもに新潟整体工房の休日の毎週火曜日に営業してきました。
つまり1年以上、1か月間の休みは第3月曜のみの生活を続けてきました。
そしてようやく白山の新潟整体工房も整骨院化する決心がつきました。
2017年12月1日付けにて、新しく「新潟整体(タイ)工房」から「新潟整骨(コツ)工房」に屋号変更し、医療保険療養費支給申請可能な施術所として生まれ変わりました。
さらに2018年3月1日、吉田の渋木整骨院も「新潟整骨工房燕院」に名称変更しました。
(注:燕院は2023年3月31日をもって閉院しました)
保険適用となっても、今までとおりコツコツと頑なに手技一本、安易に電気治療器だけに頼らず、自分自身の手技で皆さんを悩ませる症状の根本原因を探り出し、良い状態が長く続く治療を行ってまいります。
今後も新潟整体工房同様、新潟整骨工房をよろしくお願い申し上げます。
いつも笑顔でお待ちしています!!